1.3西域の毘沙門天

(西域の毘沙門天の成立)
 トルキスタン地方が、11世紀にはイスラム教の勢力下に入り破壊されつくしたか、砂漠地帯でオアシスの移動とともに残された遺跡が忘れ去られ、砂漠の下に埋もれてしまったか恐らくその両方が要因と思われますが、唐時代に盛隆した毘沙門天伝説からは、当初より全く毘沙門天像が作られなかったとは考えづらいです。しかし、残念なことですが、明確な形では現在のところ、毘沙門天の像は発見されていません。

 西域における毘沙門天の痕跡は、19世紀末から20世紀初頭の探検家スタインの残した写真やその後発掘された石窟の壁画に残されています。
 ダンダン・ウイリク塑像上半身が失われていますが、小札綴りの裾長の甲制を身につけています。ラワク塑像立像の足元には、地天らしき小像が、地面から顔を出しており、四川の毘沙門天の特徴を持っています。スタインの残した写真のみのため分かりにくいですが、上の大きな像は、地面に直接立って、地天の上には乗っていません。また、上の像と下の像は大きさのバランスでは、一対の像には見えません。

 或いは、柄霊寺132窟は、交脚菩薩を力士が支える北魏時代の石彫像でが、像は、地天らしきモチーフのうえに交脚菩薩が載ります。そのほか、キジルガハ13窟の壁画では、地神の上に供養人が乗ります。フガイウライク仏寺遺跡では、仏足の間に座って合掌礼拝している女性の壁画が見つかっています。

 このような例からは、小像と大像の組合せで祀られたことはごく普通にあるようですが、この組み合せは、地天と毘沙門天とは限りません。私は、地天の上に大像の毘沙門天が乗る毘沙門天の像容が、西域では確立しなかったと考えています。

ダンダン・ウイリク塑像、ラワク塑像立像は、掲載はできません。スタイン関連の本で確認可能です。

<画像上段:炳霊寺遠景>
<画像下段:キジルガハ石窟遠景>

 炳霊寺は、甘粛省臨夏回族自治州永靖県に位置します。蘭州から割合近いですが、黄河をモーターボートで1時間近く遡ります。169窟は法顕の自署があり特に有名です。169窟の見学には、別途300元必要ですが、希望者の私1人に担当2名が付きました。132窟は撮影できません。

キジルガハ石窟は、新疆ウイグル自治区アクス地区庫車(クチャ)県に位置します。近くに残るキジルガハ烽火台の方が有名かもしれません。13窟は解放されていません。最近キジルガハ千仏洞という言い方が多いようですが、入口の石碑には、キジルガハ(原文漢字表示)石窟とあります。

フガイウライク仏寺は、新疆ウイグル自治区ホータン地区、ホータン市(県級)の中心街より 北方40km強にあるようです。当遺跡は、1982年に発見されましたが、一般には解放されていません。

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