法隆寺金堂の毘沙門天
法隆寺金堂には、本来、同体であるはずの多聞天立像と毘沙門天立像の2体が1つの須弥壇上に並立しています。
四天王は仏教の守護神で須弥壇の四方に配置されます。多聞天は、四天王の1尊、北方の守護神として、金堂正面からは、右奥に安置されています。飛鳥後期の作品で、後代の作品のような動きは全くありません。中国南朝の影響が強いと言われています。
一方、毘沙門天立像は、吉祥天立像と並列の一具(いちぐ、ひとそろい)です。金堂には、中央に有名な釈迦三尊像がありますが、その左側に毘沙門天立像、右側に吉祥天立像が祀られています。毘沙門天立像は、平安時代(1078年)の作品です。毘沙門天立像は、右手で宝塔を捧げる像容です。
この時代、密教の全盛期であり、宝塔は左手で捧げることが多いのですが、本毘沙門天立像は、『金光明最勝王経』が根拠になっているため、宝塔を右手に持っています。毘沙門天と言っても、荒々しさは無く、優美な感じがします。木造彩色、123㎝。繧繝彩色(*3)、切金による装飾です。
『金光明最勝王経』(*1)の説く吉祥悔過(きっしょうけか)(*2)においては、毘沙門天と吉祥天が一具で本尊です。従来講堂で実施されていた吉祥悔過を金堂で行うことになり、それがきっかけで、毘沙門天立像と吉祥天像が、祀られるようになりました。向かって右に毘沙門天立像、左に吉祥天立像が祀られます。仁王経等の密教の経典では、吉祥天は、毘沙門天の妻となっています。
以下は、本編でも詳しくご説明していますの、ぜひご覧戴きたいのですが、ここでも簡単にご紹介させて戴きます。
サンスクリット語の’ヴァイシュラヴァス神‘の子を漢訳した際の音訳が、毘沙門天、意訳が多聞天であるとされます。日本では、四天王の1天として祀られる場合は多聞天、単独で祀られる場合は、毘沙門天と一般的には言われています。
毘沙門天と多聞天は、同体ながら法隆寺金堂では、別のファンクションを持つ尊像として、別に祀られています。
<画像の説明>法隆寺金堂
<画像の説明>法隆寺金堂と五重塔
(*1)金光明最勝王経は、義浄により703年に唐訳され、718年道慈が日本に請来しました。当時としては最先端の仏教知識でした。奈良時代に建立された東大寺、興福寺の多くの堂宇をはじめ、聖武天皇が、全国に建立した国分寺も金光明最勝王経に基づいており、正式名称は、金光明四天王護国之寺と称されます。
(*2)最勝王経を誦し、福徳を祈る悔過の法会。
(*3)繧繝彩色(うんげんさいしき)は、広辞苑によると下記となります。同色系統の濃淡を段層的に表し、さらにこれと対比的な他の色調の濃淡を組み合わせることによって、一種の立体感や装飾的効果を生みだす色彩法。唐代の中国で完成、わが国では、奈良時代から平安時代にかけて仏像、仏画の色彩装飾、建築、工芸品の色彩文様や染色に応用され、独特の発達を遂げた。